ヤイツェ (Jajce)
ヤイツェは14世紀に初めて築かれた町であり、その時代に独立していた中世ボスニア王国の首都であった. 街は要塞化され門を有し、また街のそれぞれの門を結ぶ城壁と城が街を守っていた. 1463年にボスニア王国がオスマン帝国の配下となると、ヤイツェはオスマン軍に占領されるが翌年にはハンガリー王国のマーチャーシュ1世に奪取される. ヤイツェから十数キロメートルのところには、ヤイツェよりも小さいコモティン(Komotin)の城と街があり、かつてのヤイツェの街はコモティンにあったが、黒死病の流行後に現在の場所に移転したと信じられている.
ハンガリー支配下では、ボスニア王妃カタリナ・コサチャ=コトロマニッチ(Katarina Kosača-Kotromanić)が聖ルカ聖堂を建て直し、これが今日のヤイツェで最も古い聖堂となっている. 1527年、オスマン帝国の拡大に屈したボスニアで最後の街となった. 異なった時代に異なった支配者の下でキリスト教聖堂とイスラム教のモスクが建てられ、宗教的多様性のある街となっていった.
第二次世界大戦でヤイツェは歴史に大きく名を残すこととなった. 枢軸勢力による占領に抵抗するヨシップ・ブロズ・ティトー率いるパルチザンによって戦後の統治体制の前身となるべく設立されたユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の会合が、1943年11月21日から11月29日にかけてこの地で開かれ、ユーゴスラビア連邦の設立、ティトーをその首相とすることなどについて議決された.
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争初期には、ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族いずれもがこの街に居住しており、セルビア人の多く住むボスニア北部、ボシュニャク人(ムスリム人)の多く住む中部、クロアチア人の多く住む南西部の交点であった. 1992年4月末から5月初頭にかけて、ほぼ全てのセルビア人がこの街を去り、スルプスカ共和国(セルビア人共和国)支配地域へと脱出した. 1992年10月の10日から11日にかけての夜に、セルビア正教会の聖堂(生神女就寝聖堂 Crkva Uspenja Presvete Bogorodice)は爆破された. 1992年夏には、スルプスカ共和国軍(VRS)が激しい攻撃を加えた. ボシュニャク人とクロアチア人の間で協力関係が機能していなかったこともあり、セルビア人勢力は10月に街を占領した. ボシュニャク人とクロアチア人はディヴィチャニ(Divičani)を経てトラヴニク(Travnik)へと脱出した. クロアチア人勢力の反転攻勢は1995年の8月から9月にかけて行われ、街はクロアチア人勢力(クロアチア防衛評議会)の支配下となり、セルビア人住民のほとんどが街を脱出した. デイトン合意では、ボシュニャク人やクロアチア人を主体とする構成体・ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の領域となることが決められた.